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デニーズでコーヒー10杯、日本での贔屓は『九州じゃんがら』…NVIDIA(エヌビディア)CEOジェンスン・フアンの軌跡

デニーズでコーヒー10杯、贔屓は『九州じゃんがら』…NVIDIAのCEOジェンスン・フアンの軌跡 経営者

6月18日のニューヨーク株式市場で時価総額3兆3300億ドルを叩き出し、マイクロソフトを抜いて初の世界1位に躍り出たNVIDIA。

GPU業界で独走体勢をとるNVIDIAにAMDやインテルが猛追、という構図も報じられているが、NVIDIAの共同創設者兼CEOであるジェンスン・フアンはかつてそのAMDにも勤めていた。

1963年に台湾で生まれ、9歳で親元を離れ米国へ移住したフアン。レストランではお代わり無料のコーヒーを10杯も飲み干し、仲間と起業の夢を語った。

台湾からタイ、アメリカ…移民としての経験

幼少期に台湾からタイへ渡るも当時のインドシナ半島には情勢不安があり、そのことに対する危惧からフアンの父母はフアンとその兄をアメリカの親戚の元へ送る。

ここでトラブルが起こる。親戚は何を勘違いしたのか、フアンを普通の寄宿学校ではなく「みんなポケットにナイフを持っているような」不良が集う更生施設のような場所に入れてしまったのだ。このあまりに突然で大きな生活の変化は、若きフアンにとっては大きな挑戦となった。ただでさえ言葉や人種の壁がある環境だったが、結果的にこの経験が彼の適応力と忍耐力を培うことになったという。

卓球でチャンピオン、デニーズでアルバイト

のちに両親も渡米して合流しオレゴン州で暮らしたフアン。高校時代には卓球でジュニアチャンピオンに輝いている(OSU alum named Fortune Businessperson of the year | Life at OSU | Oregon State University)。オレゴン州立大学では電気工学の学士号を取得している。

フアンは学業に励む傍らアルバイトにも精を出した。ポートランドのデニーズでウェイターとして働いた理由は、シャイな性格を治すため。CEOとしてNVIDIAの顔を張る立ち振る舞いはこのときに培われた。

コーヒーを飲み干し語った夢、NVIDIA設立

大学卒業後、フアンはLSIロジックやAMDといった半導体企業でエンジニアとしてキャリアをスタートさせる。そこでグラフィックス処理の可能性に魅了され、フアンはこの分野で革新を起こすと決意した。

エンジニア仲間とレストランで朝食を食べながら、起業を夢見て語り合った。その舞台はやはり、デニーズだった。お代わり無料のコーヒーを4時間で10杯飲んだという(第203回 エヌビディア創業者 ジェンスン・フアンCEO/台湾 – ワイズコンサルティング@台湾)。

1993年、フアンとクリス・マラコウスキー、カーティス プリエムの3人でNVIDIAを設立した。会社名の由来はラテン語で「羨望」を意味する「invidia」。競合他社に羨望されるような製品を作ろうという野心を名に宿したNVIDIAが、今まさに世界中の羨望の的になっている。

挑戦と成功、日本企業との意外な縁

NVIDIAの初期は決して順風満帆とはいえなかった。資金調達の困難や技術的な課題にも直面したが、フアンのリーダーシップと革新への情熱が会社を支え続けた。最初のグラフィックスチップ製品「NV1」も業界的には失敗と見なされたが、彼はそうした失敗に怯まずに挑戦し続けることの重要性を社員に説き、その姿勢こそが後のNVIDIAの成功につながった。

ちなみに日本になじみの深いところでは、ゲーム事業大手のセガが人気格闘ゲーム「バーチャファイター」などの移植に際して先の「NV1」を使用するなど古くからNVIDIAと縁があった。ドリームキャスト用GPU「NV2」の共同開発も予定されていたがNVIDIA側のミスなどもあって頓挫、一時NVIDIAは経営危機に瀕したが、フアンはそこでセガに追加出資を打診。窮地をしのいだNVIDIAの現在の爆発的な飛躍を受けて、昨今では日本国内外で「セガがNVIDIAを救った」というエピソードが注目されている。

日本国内のNVIDIAの拠点は東京・赤坂にあり、フアンは来日の際にラーメン店の『九州じゃんがら』赤坂店を訪れるのだとか。

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